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ゆかりの人物

更新日:2020年7月14日 印刷ページ表示

武将から詩人、実業家まで。育った人、訪れた人、ぐんまゆかりの人々の紹介です。

新田義貞 1301-1338/武将

新田義貞

 新田氏は1333年、北条氏を討ち鎌倉幕府を倒しました。その後後醍醐天皇の信任をうけ親衛軍指揮官まで登りつめましたが足利尊氏との対立で戦死しました。

上泉信綱 ?-1573/兵法家・剣士

上泉信綱

 上泉城主。愛州院流を学び、後に新陰流を創始。小笠原流の兵法ににも長じ、上泉流軍法を称しました。

杉木茂左衛門 ?-1686/義民

杉本茂左衛門

 みなかみ町(旧月夜野町)の農民。領主の悪政を直訴しましたが、法度を犯した罪で磔刑に処されます。

関 孝和 ?-1708/算学の祖

関 孝和

 出生は藤岡とされています。甲府の徳川綱重、綱豊に仕え和算の先駆者であるとともに、ニュートンやライプニッツと並んで微積分の同時発見者とされる世界的数学者です。

塩原太助 1743-1816/豪商

塩原太助

 みなかみ町(旧新治村)から江戸に出、薪炭問屋に奉公。勤勉実直、倹約に努め豪商となった立志伝中の人です。財は神社に寄進した篤志家です。

高山彦九郎 1747-1793/尊王思想家

高山彦九郎(「高山芳躅誌」から転用)

 新田氏の家臣を先祖に持つ。全国各地を遊歴し、公家や学者・文化人をはじめ、さまざまな人々と交流。幕末の尊王思想家に大きな影響を与えた。

中居屋重兵衛 1820-1861/豪商

中居屋重兵衛

 横浜開港時の豪商で、医学、蘭学、儒学にも通じる多才な人物。尊王運動のシンパでもあり、その最後は謎につつまれています。

小栗上野介忠順 1827-1868/幕府高官

小栗上野介忠順

 井伊大老に抜擢され幕府の要職を歴任。大政奉還の際、徳川慶喜に薩長への主戦論を要請しましたが受け入れられず罷免。その人物を惜しまれながら謀略により斬首されます。

楫取素彦 1829-1912/元県令

楫取素彦

 吉田松陰の松下村塾の出身。群馬県令として就任し、文化財の保護や蚕糸業の発展、教育の振興と10年に渡り創設期の群馬の発展に多大な功績を残しました。

船津伝次平 1832-1898/篤農家

船津伝次平

 前橋市(旧富士見村)の農家の生まれ。自然の恩恵を農業技術に取り入れ、農業経営に創意工夫をこらしました。後に東京駒場農場の教官となり静岡のイチゴの石垣栽培の指導者に。

新島 襄 1843-1890/教育家

新島 襄

 安中に出生。向学の思いからアメリカへ脱国。船中で漢訳の聖書に出会いキリスト教信者となります。群馬にプロテスタントの起点を築くとともにキリスト教主義の学校教育を訴え、同志社大学を創設

エルウィン・フォン・ベルツ 1849-1913/医学者

エルウィン・フォン・ベルツ

 明治9年に来日。日本医学の基礎を築き『近代医学の父』と呼ばれています。草津温泉の医学的効用を研究し、広く世界に紹介しました。

コンウォール・リー 1857-1941/社会実業家

コンウォール・リー

 イギリス出身。明治41年に来日、大正5年には草津に。聖バルナバ・ホームの創設をはじめ、ハンセン氏病患者のために一命を捧げ、患者たちから母のように慕われました。

内村鑑三 1861-1930/思想家

内村鑑三

 高崎に出生。札幌農学校在学中よりキリスト教に傾倒、入信。渡米し、帰国後は足尾銅山鉱毒被害者の救済や日露戦争では非戦論を唱え、日本の近代思想史に偉大な足跡を残しました。

石原和三郎 1865-1922/詩人

石原和三郎

 みどり市(旧東村)の出身。小学校教員の傍ら、口語体の児童唱歌を提案。『兎と亀』『浦島太郎』『大黒様』の作者。文言一致の唱歌教育の先駆者として有名。

村上鬼城 1865-1938/俳人

村上鬼城

 官吏の父に伴って鳥取から群馬に。正岡子規に師事し『ホトトギス』に投稿。自然の写生句と人柄のにじんだ作が多く、本県を代表する近代俳句史上の一人です。

徳冨蘆花 1868-1927/作家

徳富蘆花

 名作『不如帰』は彼がこよなく愛した伊香保が舞台です。晩年「いま一度伊香保に行きたい」と切望、病をおして来県、終焉の家は蘆花記念館として伊香保に保存。

田山花袋 1871-1930/作家

田山花袋

 館林に出生。家計は常に逼迫していましたが文学一筋に進路を決定。尾崎紅葉、島崎藤村らと親交を結び『蒲団』で文壇の脚光を浴びます。日本の自然主義文学を確立しました。

野間清治 1878-1938/出版社社長

野間清治

 桐生市の出身。講談社を設立し『少年倶楽部』『少女倶楽部』など創刊。全国に雑誌ブームを巻き起こしました。後に報知新聞の社長に就任、出版界の雄となります。

ブルーノ・タウト 1880-1938/工芸・建築家

ブルーノ・タウト

 ドイツの建築家。ナチスに追われ日本へ。2年余りを高崎の少林山境内、洗心亭で過ごします。日本の工芸に興味を持ち、彼の意匠による竹細工は今も県下に伝わっています。

山村暮鳥 1884-1924/詩人

山村暮鳥

 高崎市(旧群馬町)の出身。複雑な家庭環境に育ち、職や住まいを転々。キリスト教の洗礼を受けますが教会との葛藤に悩み生涯苦難の人生を歩みます。代表作は『風は草木にささやいた』。

竹久夢二 1884-1934/画家

竹久夢二

 明治、大正期に新聞、雑誌等に挿画を掲載。夢二式と呼ばれるけだるい風貌の女性を描き一世を風靡しました。晩年は群馬の地を愛し、美術研究所の設立を試みました。

中島知久平 1884-1949/政治家・実業家

中島知久平

 太田市(旧尾島町)出身。海軍士官でしたが飛行機研究に没頭し、中島飛行機製作所を設立。有名な零戦のエンジンも中島製でした。また、衆議院議員として政治家としても活躍。

萩原朔太郎 1886-1942/詩人

萩原朔太郎

 前橋中学在学中より文学に目覚め、室生犀星の詩に感動して詩を発表。『月に吠える』で近代人の自我を究明し、日本近代詩に金字塔を打ち立てました。

大手拓次 1887-1934/詩人

大手拓次

 磯部の旅館に出生。高崎中学から早大に進み、26歳で初めて「藍色の蟇」を発表して有名に。幻想的、官能的、絵画的な作風で、他の詩人に少ない感性をあらわしました。

鈴木惣太郎 1890-1982/プロ野球育ての親

鈴木惣太郎

 伊勢崎市出身。アメリカに留学中、大リーグに魅せられ帰国後の昭和9年、正力松太郎とともに日本のプロ野球創立に尽力。戦後、米軍からの後楽園返還も氏の功績が大きい。

土屋文明 1890-1990/歌人

土屋文明

 高崎市(旧群馬町)出身。高崎中学時代から短歌に没入。伊藤左千夫に師事し、島木赤彦没後は『アララギ』の指導者に。代表作は『山谷集』。万葉集研究の第一人者としても有名です。

清水善造 1891-1977/庭球選手

清水善造

 高崎市(旧箕郷町)出身。中学時代から庭球を始め、大正9年のウィンブルドン大会で、転倒した相手選手に打ちやすいボールを返した話は有名。大正10年には世界ランキング第3位。

福沢一郎 1898-1992/洋画家

福沢一郎

 富岡市出身。東京帝大に進みましたが彫刻家朝倉文夫に入門。後に絵画に変更し渡仏。シュールレアリズムに影響を受け、日本においてはその旗手として衝撃を与えました。

山口 薫 1907-1968/洋画家

山口 薫

 高崎市(旧箕郷町)の旧家の生まれ。優れた素描力と豊かな色彩感覚は天性のもの。抽象画と具象画の間に独特の叙情的な色彩をもつ画家として画壇に高い地位を築きました。

江口きち 1913-1938/歌人

江口きち

 川場村の生まれ。郵便局に務め、博打好きの父と耐える母、知的障害の兄の生活を支えました。河井酔茗、島本久恵について短歌を始めますが失恋と生活苦から兄と自殺。