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【名誉県民】福田 康夫

更新日:2014年3月31日 印刷ページ表示

福田 康夫(ふくだ やすお)
 昭和11(1936)年7月16日生
 顕彰日/平成25(2013)年10月28日

事績

 昭和11(1936)年7月に東京府東京市(現東京都)世田谷区で、大蔵省に勤務していた福田赳夫とその妻三枝の長男として生まれる。麻布中学校、麻布高等学校を経て、昭和34(1959)年3月早稲田大学第一政治経済学部を卒業。同年4月に丸善石油株式会社(現コスモ石油株式会社)に入社し、昭和37(1962)年3月から2年間アメリカロサンゼルス支店で勤務した。
 昭和51(1976)年11月に丸善石油株式会社を退社後、衆議院議員であった父福田赳夫の議員秘書となり、翌年、内閣総理大臣秘書官を経験。平成2(1990)年に53歳で衆議院議員選挙に立候補、初当選を果たした。議員としては、外務政務次官、自由民主党外交部会長を務めるなど、主に外交関係のポストで地歩を築き「外交の福田」と呼ばれた。
 平成12(2000)年10月に第2次森内閣で、内閣官房長官、沖縄開発庁長官として初入閣し、沖縄科学技術大学院大学の設立構想を推進し、第2次森改造内閣でも内閣官房長官、男女共同参画担当大臣を務めた。
 平成13(2001)年4月からの小泉内閣でも内閣官房長官、男女共同参画担当大臣に就任し、「2020年までにあらゆる分野の指導的地位に占める女性の割合を30%とする」という数値目標を掲げるなど女性の社会参加に尽力した。
 3年半にわたった内閣官房長官の在任期間は1289日、歴代最長となった。
 平成19(2007)年9月第91代内閣総理大臣に就任、自身の内閣を「背水の陣内閣」と命名した。日本憲政史上初めての親子での内閣総理大臣である。
 C型肝炎患者を救済する薬害肝炎被害者救済特別措置法の成立、消費者行政を一元化する消費者庁の設置、社会保障国民会議の設置、公文書管理法の創設、住宅政策の整備など、国民生活を重視した政策を推進した。また、インド洋での給油活動の根拠となる新テロ特別措置法の延長に尽力した。特に、平成20(2008)年7月7日から開催された北海道洞爺湖サミットでは議長を務め、2050年にCO2を50%に削減するという難問を全会一致でまとめ上げた外交手腕を発揮し、また北朝鮮による日本人拉致問題に関する北朝鮮への非難をサミットの首脳声明に史上初めて盛り込んだ。
 平成20(2008)年9月に内閣総辞職、在任期間は365日であった。
 内閣総理大臣退任後は、日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りに理解を求めるなど度々特派大使として各国を訪問した。また、平成21(2009)年7月の天皇・皇后両陛下カナダ・ハワイ御訪問の首席随員を務めた他、アジア25カ国の国会議員らで構成する「人口と開発に関するアジア議員フォーラム」の議長を務めた。
 平成24(2012)年9月、今期限りで議員を引退する意思を表明。同年11月衆議院の解散を機に政界を引退した。
 議員引退後もボアオ・アジア・フォーラム理事長、公益財団法人アジア人口・開発協会理事長、公益社団法人日本カヌー連盟代表理事会長を務めるなど国内外の幅広い分野で活躍されており、その偉大な功績の数々は、群馬県民の誇りとするところである。

(平成25年12月5日群馬県報登載)

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