ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織からさがす > 総務部 > 総務課 > 【名誉県民】中曽根 康弘

本文

【名誉県民】中曽根 康弘

更新日:2014年3月31日 印刷ページ表示

中曽根 康弘(なかそね やすひろ)
 大正7(1918)年5月27日生
 顕彰日/平成23(2011)年10月28日

事績

 大正7(1918)年5月に高崎市で中曽根松五郎、ゆく夫妻の次男として生まれ、県立高崎中学校、静岡高等学校を経て、昭和16(1941)年3月東京帝国大学法学部政治学科を卒業、同年4月内務省に入省。その後、海軍短期現役制度に応募し海軍主計中尉に任官され、フィリピン、台湾の戦地に赴く。終戦後は内務省に復帰、内務事務官(大臣官房調査部)、香川県警務課長、警視庁監察官の職を歴任した。
 昭和21(1946)年12月に内務省を退官し、翌昭和22(1947)年の衆議院議員選挙に出馬。初当選を果たし、以後56年に及ぶ議員生活をスタートさせた。
 昭和34(1959)年6月、41歳の若さで岸内閣の科学技術庁長官として初入閣し、原子力の平和利用や宇宙開発の推進に奔走するなど精力的に活躍した。
 昭和42(1967)年11月には第2次佐藤内閣の運輸大臣に就任。卓越した外交手腕を発揮し、当時懸案となっていた日ソ航空交渉の進展に大きく貢献した。
 昭和45(1970)年1月の第3次佐藤内閣で防衛庁長官に就任すると、第4次防衛力整備計画や我が国初めてとなる防衛白書の策定に尽力した。
 昭和47(1972)年7月には田中内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官に就任し、石油ショックで混乱した国民生活の安定に努めた。
 昭和55(1980)年7月、鈴木内閣の行政管理庁長官に就任し、懸案事項であった行財政改革に積極的に取り組み、「行革三昧」を唱え、財政再建、行政の合理化・効率化を推進した。
 昭和57(1982)年11月第71代内閣総理大臣に就任。「国際国家・日本」を合言葉に、総理大臣として初めてとなる韓国への公式訪問や開発途上国の支援に力を入れるなど積極的な外交を展開。レーガンアメリカ大統領とも親交を結び、国際的発言力の強化とともに日本の国際的地位向上に大きな役割を果たした。また、「戦後政治の総決算」を目指し、税制改革、教育改革、行政改革に取り組み、特に行政改革においては、昭和60(1985)年に電電公社及び専売公社の民営化、昭和62(1987)年に国鉄の分割民営化を成し遂げた。
 昭和62(1987)年11月内閣総理大臣の任期を終えて退任。在職期間は戦後歴代4位となる1806日に及んだ。その後も国政の中枢において活躍し、平成9(1997)年2月には衆議院議員在職50年を迎え、同年4月には長年にわたる国家への功績に対し、生前受章では吉田茂、佐藤栄作に続く戦後3人目となる大勲位菊花大綬章が授与された。
 議員引退後も生涯政治家として、今なお国政はもとより国際政治家として世界平和へ向けた提言を積極的に行い、93歳を超えた今も公益財団法人世界平和研究所会長などの要職を始め幅広い分野で活躍され、その偉大な功績の数々は、群馬県民の誇りとするところである。

(平成23年10月28日群馬県報登載)

「これまでの名誉県民の方々」へ戻る